和解力 その5

2015年10月27日

Sさんと警察官の和解が成立し、周囲の人達は、ホッと一息を入れることができた。もちろん、和解の調整に当った筆者も安堵感を隠しきれなかった。ところが、それから2週間もたたないうちに、Sさんが再び「むしゃくしゃする」と言ってイライラし始めたのである。

彼の話に耳を傾けると、自分を精神病院に入院させた精神科医に腹が立つというのである。「あのときの診断は、誤診であった。精神科医が自分の誤診について謝罪してくれなかったら、私の人生は傷付いたままだ」そう言ってきかないのである。

そこで苦悩した結果、再びSさんの母親が、精神科医に連絡を取り、Sさんの自宅に来てもらうことになった。それはほとんど不可能に近いほど困難なことであったが、何故かSさんの治療に当たった2人の精神科医が来てくれたのである。そしてもちろん、Sさんの母親は、筆者に話し合いの調整役を依頼してきた。成り行き上、筆者は、そのことから逃げることはできなかった。

2人の精神科医は、Y医師(上司)と、W医師(部下)であったが、部下のW医師は、この話し合い自体に、とても不快そうな態度であった。しかし、上司に諭されたのか、嫌々来てくれたのである。

さっそくセッションが始まった。

CO「これから2時間ほど話し合いをしたいと思いますが、2時間後、今日はよかったというような話し合いをしたいと思うのですが、それにはどんな話し合いをしたらよいのでしょう。Sさん何かありますか?」

S「本音で話し合えればいいじゃないですか。素直に格好つけずに話し合えれば・・・・・」

CO「なるほど、Y先生はいかがですか?」

Y「それで結構です」

CO「W先生はどうですか?」

W(黙ってうなずく)

CO「お母さんは、話し合いに参加しないで聞いてて下さい。話し合いの中で、これは自分の中で為になるという内容については、是非拾って下さい。しかし、このことはあんまり有益ではないというような話であればそれは捨てて下さって結構です。後でコメントもいただきたいと思います。私は、今日お母さんから進行役を頼まれた東京メンタルヘルス・アカデミーのカウンセラーの武藤といいます。上手く進行役ができるかどうか心配ですが、よろしくお願いします。それではSさんから話をしていただきたいと思います。SさんはどうしてY先生とW先生に来てもらいたかったんですか?」

S「だって、私が大学病院の精神科に入院させられたのは、警察官のAさんが無理矢理病院に連れて行ったからなんです。ロクに話もきかず、自分の状態も分からないくせに連れて行かれたんです。でもそのことについて、Aさんは私に謝ってくれました。だからAさんのことは許せました。でも、私を無理矢理精神科に入院させたこの2人の先生もおかしい。だって、何一つ診断しないで保護室に入れたんだよ。あれはおかしいでしょ。訳が解らないまま連れて行かれて無理矢理入れられた!どうしたって入れた精神科医には責任があるんじゃないですか!」

CO「先生方、今の話しを聞かれてどのように思われますか?」

W「だってあの時は、あなたが暴れたし、周りの人達に暴力を振るったんだから、保護室に入れるのが一番いいと思ったんですよ」

S「何で暴力を振るったかわかる?俺が何にもしないのに、みんなが俺のことを押さえつけるからだよ。それに何一つ理由も聞きもせず、入院させようとするから」

W「しばらく落ち着くまで保護室に入ってもらうのが一番いいと思ったから」

S「それから、Y先生よ、あんたいきなり俺に注射打ったろ!」

Y「打ちました。睡眠薬を打たしてもらいました」

S「何でそんな権利あるんだよ!」

Y「かなり緊張していた雰囲気もあったし、イライラしていた感じもあったので、少し休んでもらうのが一番いいかなと思って医者として睡眠薬を打たしてもらいました」

S「診断もしないでいきなりか!」

Y「後で落ち着いてから、ゆっくり話し合いをすればいいと思ったからです」

S「ひどいもんだ。これが精神科医療の実体かよ」

こんなやり取りの応酬に、果たして収拾がつくのか筆者は心の中で不安と焦りを感じ始めていた。

和解力 その4

2015年10月27日

全ての和解は、自分の非を認めるという自覚なしには上手くいかない。前回の話し合いは次のような結果になった。

CO「Aさん、Sさんが怒っているのは、Aさんが彼の言い分を聞かずに病院に連れて行ったことだと言っていますが、Aさんが言い分を聞かなかった理由もあるのでしょうか」

A「言い分を聞いていたら、病院に連れて行けなくなるのではと思ったからです。こんなことを言ったら何ですが、Sさんのお母さんに頼まれたんです」

S「じゃあ、頼まれれば何でもやるのか!人殺しもやるのか?」

A(沈黙)

CO「Aさん、Sさんの言い分を今ここで聞いてやってもらえませんか」

A「わかりました。遅すぎるかもしれませんが、聞かせてください」

S「俺は何であの時、暴れたかっていうと、お袋がいつも話をすり替えるからなんだ。確かに暴力を振るったのはいけないけど、お袋も追い打ちをかけるような言い方をするんだ。あの日も『俺のこと恐いか』と詰め寄ったら、お袋は『恐くなんかないよ。自分の息子だもの・・・』と言うんですよ。『じゃあ、なぜ逃げようとするんだ』と言ったら、『母親なんだから逃げたりなんかしないよ』こんなふうに言い訳するんです。それで俺は『嘘つくな!正直に言え』って言ったんです。『嘘は言ってないでしょ』って言うから、こっちは頭にきて『これだからイヤになるんだよ!』それで机を叩いたら、お袋逃げやがってそれであんたの所に駆け込んだんだ。俺はお袋に『お前が恐いから逃げるんだ』って本音で言ってもらいたかった。お袋はいつも本音を言わずに建前ばっかり並べ立てる。俺はそうやって育てられてきたんだ。わかるか!Aさん、わかってくれAさん」

Sさんはまるで泣き出しそうな表情でAさんに訴えた。

A「・・・・。そうだったんだ。なんか今の話を聞いていて、自分の小さい頃のことを思い出しました。自分に似てるなって・・・私も母親には話を聞いてもらえなかったんです。父が酒乱でよく暴力を振るって いました。それが嫌で嫌で、そういう奴を取り締まりたい。そんな思いから警察官になったんです。Sさんの気持ちわかるよ・・・」

S「ほんとかよ。じゃあ俺を病院に連れて行ったことの過失認めるよな。謝れ!」

A(沈黙)

S「謝れよ!」

A「申し訳なかったです。あなたのことを少しも理解しないままで、あなたを病院に連れて行った私が悪かったんです」

S(沈黙)

A「あなたの人生に傷を付けてしまいました。本当にすいませんでした」

S「・・・・わかった。もういい」

Sの母「よかったなお前」

S「うるせんだ!お前は黙ってろ。勝手なんだから、お前が一番悪いんだ!」

Sの母(沈黙)

S「都合が悪くなるといつもそうやって黙る」

CO「お母さんもできたら一緒に謝ってください」

Sの母(沈黙)「どうしていいか躊躇してしまいます」

CO「心から謝りたいっていう気持ちにはなれないんですね」

Sの母「っていうか、今のSとAさんのやりとりを見てて、心底そういう気持ちになれないといかんなと思ったからです」

CO「心底?」

Sの母「はい。でも、今振り返ってみると、確かに私はこの子に建前ばかっり並べていたような気がします。自分の気持ちや感情を素直に言えませんでした」

CO「素直に言えなかったんですね」

Sの母「っていうか、間違ったことを言って、暴力振るわれたり、ものに当たり散らされたりするのが恐かったんです。いつもどう答えたらいいか考えてました。でも、それがかえって腫れ物に触るような感じになり、余計にSを苦しめていたんですね」

S「そうなんだよ。今わかったか」

Sの母「今ようやく気がつきました。もっと自分の気持ちや感情をこの子に素直に出していければいいんだって。いつも周りを気にしてきた私がいました。もっと自分の本音を出していいんですね」

CO「ああ、今日はとてもいい話ができました。私も心の洗濯ができたような気がします。今日はどうもありがとうございました」

この日はこんなふうにして和解に至った。

和解力 その3

2015年10月27日

前回は和解にあたってカウンセリングのスキルが必要だと述べた。しかし、こう言ってはなんだがカウンセラーが和解する力があるかというと必ずしもそうとは言い難い。私などは、その最たる者かもしれない。それは自論を曲げないからであり、相手を変えようとする習慣が身についているからである。それでも意外に他人事に関しては、上手に和解の援助ができるカウンセラーもいる。

和解にとって大事なことは、まず和解したいという意思があるかどうかである。次に大事なことは、和解のステップをしっかり踏むことである。そしてそのプロセスでは、いかに双方が理解し合えるかということにかかっている。

また第三者がその相互理解をどう援助できるかということも重要である。しかし実際に、和解しようと思っても面倒という気持ちが働く。面倒の中味は「消耗してしまう。どうせ話し合っても上手くいかない。収拾がつかなくなる」といった予測である。過去に上手くいかなかった体験があると、考えただけでも「うんざり」と思ってしまうものだ。しかし実は、和解の秘訣はこのうんざり感の中にある。そこには必ずといっていいほど、うんざりさせられる情況が展開している。

うんざり感は和解のプロセスで形成されたものだからである。その点、うまく和解ができた当事者は、和解することに積極的なイメージを持っていたり、意義深さや可能性を信じている。

ここで小生の忘れられない体験例をお話ししよう。もうかれこれ15年も前の話になるが、とてもナーヴァスで攻撃的なクライエント、Sさんがいた。ところがこのSさんは強制的に大学病院の精神科に入院させられたという体験がある。そして、そのことが彼の中では最大の傷つき体験、トラウマにもなっていると言う。

日常の中で何かストレスフルなできごとが起こると、決まってそのトラウマを持ち出し、家族を攻撃する。特に母親への怒りは激しく、母親も逃げ惑うことが度々であった。それもそのはず、その強制入院の際にそれを裏で仕組んでいたのが母親でありその手伝いをしたのは、昔からよく知っている近所の警察官A氏だった。Sさんが暴言を吐いた際に、母親が駐在所に逃げ込み、助けを求めたのである。

Sさんの不満の理由は、A氏が何一つ彼の言い分を訊かず、精神病院に連行したことであった。そのことについて、A氏が謝罪してくれない限りは、前には進めないというものであった。筆者はこの母親の依頼で、和解のためのセッションを持つことになった。母親の懇願により、警察官も渋々と参加してくれた。見るからに和解する意思はないといった態度であった。

しかし、Sさんの家はこの地域では名家であり、その警察官も受諾せざるを得なかった。本来ならここで小生が、その警察官A氏の和解に対する意思を確認し、和解のための積極性を導く準備をしなければならなかったが、それをやってしまうとSさんがやっかむ怖れがあると思い、敢えて、それはしないようにつとめ、むしろ、このA氏がこの和解の場に積極的に来てくれたと解釈し、「きょうはお忙しいところをわざわざ来て頂き、本当に有難うございました」と大袈裟に振る舞ったものである。

それがよかったのか悪かったのか、A氏も表向きは「いえいえ、こちらも気になっていたので」と返してきた。ところが敏感なSさんは、「それはタテマエだろう!本当は来たくなかったくせに!」と間髪を入れずに怒号を浴びせた。その瞬間A氏の眉間にしわが寄った。

そこで小生は「Sさん、実はAさんは今日は家族で旅行する予定だったんだ。それを変更して来てくれたんだよ。かなり無理してくれたんだよ・・・・」とA氏を庇いSさんを諫めた。「だったら来なきゃよかったんだ!それに俺を病院に連行した過去はどうなるんだ。それは大事じゃねぇのか。他人の人生をめちゃくちゃにしておきながら、何が家族旅行なんだよ!他人の人生を勝手に邪魔したことを自覚できてんのか!まずその事を謝れ!」

その時、小生はA氏の表情に、後悔の念を読み取ることができた。「これだから来なければよかったんだ・・・・・」

すべての和解は「自分の非を認める」という自覚なしにはうまくいかない。いわんやSさんのような人には「タテマエ」や「仕込み話し(根回し)」はほとんど通じない。すべての過去は「今、ここで」にかかっている。そしてそんなことは百も承知のはずであった。

和解力 その2

2015年10月27日

1月15日、薬害C型肝炎訴訟の原告・弁護団と国側との和解合意が成立した。原告・弁護団にしてみれば5年余を経ての和解合意は長い年月で あった。過去最大規模の薬害事件だっただけに、全国原告団代表の山口美智子さんは、ホッとした表情で「やっと頂上に立てた」と表現した。

この合意書で、国側は薬害被害の責任を認め謝罪し再発防止を誓った。救済の対象は後天性疾患でフィブリノゲンか第9因子製剤を投与された人と母子感染者である。しかし感染者は投与事実の証明が必要であり、医療記録やそれと同等の証明に基づいて判断され、不明な点や争いがある場合は裁判所が それを行い、当事者もそれを尊重することとした。この結果、原告側はひとまず安心できたが、実際にウィルスに汚染された血液製剤を投与されていながら、カルテなどの医療記録が消失し原告側に加われなかった患者たちもいる。

「C型肝炎患者21世紀の会」代表の尾上悦子さんもその一人である。彼女は、「私たちを置き去りにしないで!」と訴えこの会を結成した。感染者は約1万人に上るのに、投与された証明力を持つ原告はたった207人、それ以外の大多数の患者はどうなるのか、尾上さんも証拠が確定されず原告になれなかった一人なのである。

原告弁護団と法務省の話し合いでは、医師による証言や手術記録、母子手帳などから総合的に判断できる場合は、薬害被害者と認める方針が決定されたが、カルテなどがなく、医師の証言も得られない患者は救済対象から外される可能性が高い。

原告以外の被害者が救済法によって給付金を受けるには国と製薬会社を相手に訴訟を起こすしかない。福田首相は昨年12月末「全員一律救済」を表明したが、今後この問題は大きな課題を残すことになった。

このように団体同士の和解や、国が関与する和解は、証明の仕方、救済の方法、給付金などの条件をめぐって難航することが多い。これが個人対個人の場合はもっとシンプルで話し合いや争った後に慰謝料や示談金を払って済むことが少なくない。

最近では、「裁判外紛争処理」つまり訴訟以外の方法による民事紛争の解決手段の重要性が高まっている。これはADR(alternative dispute resolution)と呼ばれ、民事訴訟が本来の紛争解決機能を十分に発揮しない事や、全ての紛争が必ずしも裁判という形式になじまない事もあって、裁判外で紛争処理が行われることである。別名「代替的紛争解決」とも言われている。広義には、民事調停や家事調停などの裁判所における訴訟以外の紛争処理であったり、公害や環境問題等調整委員会、医療事故の調査委員会などの裁判所外の公的な紛争処理機関によるものを含んでいる。

身近では交通事故紛争処理センターのような私的機関から個々人の自由な示談交渉まで様々である。2004年には「裁判外紛争解決手続の利用の促進に関する法律」が制定され2007年から施行されている。

しかしどんな形態の和解にしろ、大切なことは双方がよく話し合い、気持ちを交換し、理解し合うことである。そうでなければどんな和解もお互いに不満や不信感を残してしまうからである。

今後ADRが広まれば広まるほど形式的なことが排除され、実質的な中味が重要視される。そうなると話し合いの仕方や理解する力、相手の立場に立った感情の移入などが求められることになるであろう。

和解が困難なのは双方が利害や損害をめぐって話し合いのテーブルについてしまうため、自分の身を守ることだけを考え、相手の立場に立つことができないのである。称賛に値する和解には、お互いの立場を理解できるような話し合いの方法やスキルが必要となってくる。そこには専門的、第三者の立場からカウンセラーの役割も求められる。

家族療法でよく用いられる「リフレクティング」つまり創造的な相互の反響のさせ合い、ゲシュタルト療法の「エンプティチェア」「トップドッグとアンダードッグ」による立場の交換、サイコドラマの「ダブル」や「黒衣役」による気づきの援助などがそれである。

人間関係が希薄になりコミットメントする雰囲気が失われた時代、そしてそれに伴い和解力が喪失してきた今日では、カウンセラーによる人間関係の活性化や修復の援助技術が増々要請されそうである。

和解力 その1

2015年10月27日

今、日本は、人間関係の希薄や、人付き合いの悪さが言われるようになって久しい。

例えば、今学校では、次のようなことが起こっている。A君とB君が、学校の廊下で取っ組み合いの喧嘩をしている。でも20年ほど前は、A君やB君の側を通りかかったC君やD君はそれに介入する姿があったと、学校長たちは口々に言う。しかし、今の学校では、そういう風景はほとんど見られなくなったという。側を通りかかったC君やD君は、見て見ぬ振りをしたり、2人でペチャクチャ話をしながら、そこを通り過ぎていくという。これが「解離する社会」である。

解離は、人がいるのに交わらない。何かトラブっているのに知らん振り。まるで何事もないかのように振る舞うことである。こうなるとA君とB君は、集団の中の孤独、2人は極度に緊張し、やるかやられるかといった状態になるという。このような事態は学校だけではない。職場や家庭、地域社会でも見られる現象である。

そんなことから今年は、コミュニケーションをはかったり、人付き合いを良くすることを心がけたい。その中でも「和解力」の実現に目標を置きたい。和解力というのは、一言で言えば、喧嘩して仲直りということである。

6ヵ国協議での和解。拉致問題での和解。薬害肝炎訴訟での和解。犯罪被害者と加害者、医療訴訟、横綱朝青龍と日本大相撲協会、夫婦、恋人同士、親子、上司と部下、同僚同士、そして自分の中の葛藤する小人同士の和解など、和解する対象は様々である。しかしどんな和解であっても、和解は面倒である。

できたら放っておきたい、知らん振りしていたい、近付きたくない。憤りを感じる、もう見たくもないし会いたくもない、死んで欲しい、会社を辞めたい、できたら異動したい、最後はこんな思いになってしまう。でも苦しい。葛藤もする。後悔だってしてしまう。これが対人関係の悩みである。

2001年6月、千葉県にNPO法人「被害者加害者対話の会運営センター」というのが発足した。ここは、文字通り犯罪被害者と加害者の和解を 支援するセンターである。

ここの理事長を務める山田由紀子弁護士は次のように語る「被害者と加害者は、話をせず、意思の疎通を取らない。しかしそのことで更に不信感を募らせるケースが多い」このセンターでは、扱う事件は少年犯罪に限っている。その大きな目的は、「被害者の被害回復」と「加害者の更正・再犯防止」である。

このセンターでは、対話の会を積極的に勧めている。司会を務める進行役は、事前に双方に会い入念な準備をする。ほとんどが無給の市民ボランティアだという。進行役は両者と会い、できるだけ事件の成り行きについて情報を集める。その後両者の気持ちを聞き出し、理解することに努める。

だいたいは被害者が自分の思いを語り、それをじっと加害者が聞いていることが多い。ひとしきり話し合った後で、被害者が言う。「これ以上話すことはありません。僕はあの事件の前後の記憶が一切ないんです。

事件がどのように起こったのかそれさえも覚えていない。だから、その時のことを教えてもらえませんか」すると加害者は、「つい、カッとなってやってしまいました。まさかこんな事態になるなんて思ってもいませんでした。本当に申し訳ありませんでした」しかし被害者の両親は興奮して、取り付く島もない。被害者の両親が、激しい怒りを加害者にぶつける。加害者はそれを黙って受け止める。まさにそこは修羅場と化す。

そしてその後に決まって長い沈黙が訪れる。両者はお互いに口をつぐんでしまう。ある程度時間が経ったところで、司会者が和解金について話を持ち出す。ここでは金額については、進行役は一切口を挟まない。あくまでも両者が納得して決めることが原則である。「金額は被害者が提示した500万で結構です。でも一度にそんなお金は払えません。最初に100万を支払わせてもらい、後は分割というわけにはいきませんでしょうか。できれば、息子に働かせ、返せたらと思っています」被害者が黙ってうなずく。

そして最後にこう付け加えた「この事件に遭って僕の人生は粉々にされた。どれだけあなた方を恨んだことか。でも、いつまでもそんなことばかり言ってはいられない。僕は1日も早く事件のことを忘れたかった。でもなかなか忘れることはできなかった。だから僕は、この会に救いを求めた。今日は来てよかったと思います」このようにして、和解が成立するのである。

このような和解方法は、アメリカなどで行われている「修復的司法」という手法である。最近、日本にも持ち込まれているが、実際に対峙した両者の心の中には、反目や対立、せめぎ合い、沈黙、葛藤、後悔などの気持ちが生まれる。それを上手に取り仕切っていくのが司会の役割である。