日常の“モラハラ”-ハラスメントその1-

2015年11月2日

ハラスメント、いわゆる嫌がらせの中に「モラルハラスメント」と呼ばれるものがある。これは、言葉や言い方、態度や行動、メールや電話などによって相手や周りの人の人格を傷つけたり、尊厳を侵すことを言う。その結果、当事者は不安や脅えを感じたり、うつ状態に陥ったりする。時には、精神的外傷から辛かった体験や嫌なことが想起され、情緒不安定になる。

周りの人が過去の体験を持ち出したり、たまたま似たような話を出すと「やめて!!」と叫んだり、その場を回避しようとする。なかには冷汗をかいたり、不眠や動悸などの自律神経失調症になったり、パニック状態になる。

行動面では子どもたちは学校に行き渋ったり、不登校になったりすることもある。働く人たちは出勤拒否や退職せざるを得ない状況に追い込まれる。

では、モラルハラスメント(モラハラ)はパワーハラスメント(パワハラ)とどう違うのか。岡田康子氏は、パワハラとは「職権つまり権力や地位、資格などを背景にして、本来の業務の範疇を超えて継続的に人格と尊厳を侵害する行動を行い、就労者の働く環境を悪化させたり、雇用不安を与えること」と定義している。

平たく言えば、強い立場にある者が弱い立場の者に対し、繰り返しいじめや嫌がらせをすることである。そこには攻撃があったり、強要があったり、ときには強い否定や妨害などがあったりするが、いわゆるこれが「パワー」によるものである。

一方、モラルハラスメントは上述したようなパワーを背景にするのではない。

むしろ陰湿だったり、裏があったり、差別的だったりする。表面にはあまり出ないが、潜在的・習慣的に精神面に影響を及ぼす。ここでは主に職場でのモラルハラスメントの実際を紹介したい。

「こんなことをしてたんじゃ、この職場に居られなくなったりして・・・」など曖昧な表現で非難や排除をほのめかす。

部下や同僚がミスをしたり、トラブルを起こすと「えっ、また!」と大袈裟に言ったり、「チッ!」と舌打ちしたり、「ハーッ」とため息をついたりする。「そういえば、課長が君のことをねえ・・・」などと言いかけるが、途中で止めて不安を煽る。

何か聞いたり質問するとぞんざいな対応をしたり、いつも不機嫌な態度をとる。

「そういえばあなたって、家の最寄り駅が○○だったわよねェ」といったメールを送り脅す。

「ねェ、意味わかっているの?!」と常に自分が優位な立場で話す。

「誰かが言ってたけど、あの人大学出てないんだって」と出所が分からないように言ったり、差別的なニュアンスを含ませる。

その人だけには、お土産のお菓子を配らないなど差別的行為をする。

皆の前で「○○君は・・・」とか「この子は・・・」といった見下した呼び方をする。

自分の形勢が不利になると「○○君が言い出したことなんですよ」と責任転嫁する。

部下が仕事の催促をすると「そんなことよりお前、今日遅刻しただろう!」と話をすり替える。

「オレはオマエのことを責めているつもりはないよ」と口にしながらも責め口調で言う。

「あなた、結構煙たがられてるみたいよ」と言って孤立させる。

「おまえ、ウツやったんだよなあ」と皆の前でからかったり、嫌味を言う。

自分にとって嫌いな人には情報を伝えなかったり、嘘をついたりする。

「奥さん、よくそれで我慢しているよね」と人格をけなすような言い方をする。

「この係はあなたでもっているんだから、しっかりしないと」と過度の期待を押しつけ、圧迫感を与える。

「そうやっていつも皆の足を引っ張ってるよね」と言って決め付けたり、落ち込ませたりして、意欲を失わせる。

このようにモラハラの事例はきりがない。しかし、共通することは無視したり、拒否したり、不安を与えたり、過度の期待をしたりなどいわゆる人間関係上の差別が存在する。

精神分析学者サリバンは「精神医学とは人間関係論である」といったが、すべてのハラスメントはまさにそれを意味する。交流分析でいえば、ハ ラスメントにはマイナスのストロークがあるが、モラハラは特に言い方や表情、態度や関係など非言語的側面にマイナスのストロークが現れやすい。

しかし、翻ってみた時、モラハラ的人間関係やコミュニケーションは日常的には散見することである。モラハラを含めハラスメントの根源は生まれ育った環境の価値観や文化、それにその社会が目指しているモラルに拠る。従って、そのことを振り返り、気質や個性など自己理解や他者理解を深め、話し合い、自己表現のスキルを学んだり、人間関係の免疫力も高めていく必要がある。そうでない限り、どんなに決め事やルールを定めたとしても前進は望めない気がする。

生活習慣病の意味するもの その2-生活習慣病のカウンセリング-

2015年11月2日

夫:入院したいんだけど・・・。

妻:どうしたの?

夫:糖尿病。

妻:お金無いわよ。車検代だって、私払ったし・・・。入院費は自分の小遣いから出してよ!

夫:保険会社からだって少しは入るだろう?

妻:それは私がもらう・・・。

夫:え?

この後、夫は落ち込むのであるが、考えようによっては、夫の糖尿病で妻はもうかり、夫は自分の小遣いがそんなにも多いのかと優越感に浸ることもできる。(認知療法)

生活習慣病は、偏った生活習慣と人生(認知)の歪みから来る。思い通りにならないことが続くと、不安や不満を覚える。その対処行動として、人は嗜癖に走る。

生活習慣病は嗜癖行動の副作用の結果、生じた病気である。嫌なことがあると酒で慰める。寂しくて甘えたい時は異性を求める。むしゃくしゃしたら、何でも買ってしまうし、何でもやってしまう。こんな繰り返しが生活習慣病をもたらす。要するに生活習慣病の根本的治療は、食生活の見直しと適度な運動を生活の中に根づかせることである。もっと言うなら、自分にとって健康な食生活や適度な運動ができるように、自分のライフスタイルを変えていくことである。

しかし、小生にとって健康的な食生活の中に何か夢や楽しみを見出せるのかといえばそうでもない。トマトジュース1缶、ご飯80グラム、ほうれん草のおひたし少々、山盛りのキャベツ、トーフ 1/4丁、ワカメのみそ汁1杯、こんな料理の中に夢や楽しみはない。というより、仕事が終ったらそそくさと帰宅し、テレビを見ながらこんな料理を一人で食べるイメージにいささか嫌気を覚えている。やはり、仕事が終ったら気の合う同僚や友だちと居酒屋でも行き、今日のできごとや印象に残ったことなどを話し、盛り上がる。場合によっては気にくわない奴の悪口でも言い合って憂さを晴らす。いわばそんなストレス対処行動をいつも期待し、そこから脱却できないのである。

一般に、ストレス対処行動を考える時、3つの視点が重要である。

(1)ストレスをもたらす負荷の軽減

(2)ストレス耐性とコントロール能力

(3)周囲のサポート

小生の場合は、ストレス耐性やコントロール能力が低いことである。ストレスに曝されると、食行動に走る習慣がある。したがって、その心理的メカニズムについてじっくりカウンセリングを受ける必要がある。

「あなたはストレスに曝されるとどんな状態になりますか?」
「どんな気分になりますか?」
「体の状態はどうなりますか?」
「頭の中で、どんなことを考え、どんな連想をするのでしょう?」
「そして、どんな行動をとってしまいますか?」

こんな質問を、優しい声でされてみたい。きっと、ひとつひとつ答えていく中で、自分の状態が明確になっていくように思う。さらに「そのことは何に起因するのでしょう?」と投げかけてもらうなら気づきも生まれるにちがいない。

おそらく小生はストレスに曝されると葛藤したり、苛々してしまう状態を冷静に受け止められず、何か代替行動をすることによって解消しているのだ。ここで大事なことは、葛藤や苛々感を冷静に受け止められることであるが、そのためには、感情の舞台裏となっている認知に目を向けなければならない。

ストレスに曝されると、小生は「もういい!」「勘弁してくれ!」「自分は自分」などと、開き直る癖がある。この時、他の見方やもっと楽になる考え方を模索する事が大切である。

視野が広がればプラス思考にもなり、情緒も安定する。情緒が安定すると冷静になり、今自分が何をしようとしているのかも見えてくる。その結果、過剰な食行動に走ることもない。

今、小生が生活習慣病対策としてとっている方法は、心の中にもう一人の自分をつくり、相談役になってもらっていることである。葛藤や苛々感が生じた時は必ずこの相談役に話をもちかけている。この相談役と充分なやりとりができれば、前述したような冷静な状態をつくれる。勝ち負けをつければ、退院してから53勝8敗である。

冷静になれると、人はそんなにまちがったストレス対処行動に走ることはない。

生活習慣病のカウンセリングは、その人に合ったストレス対処行動の方法を見つける援助をすることであるが、そのベースになるのは認知の歪みを修正することである。

生活習慣病の意味するもの その1-職場復帰に試金石を投じる-

2015年11月2日

自分は病気であると告白することは怖いことである。どう見られるか、どう評価されるかが不安なのである。今だから言えるが、3月下旬から2週間ほど入院していた。病名は糖尿病。所謂、「生活習慣病」である。

糖尿病は膵臓のランゲルハンス島という部位から分泌されるはずのホルモン「インシュリン」が出なくなったり、その働きが悪くなったりして、血液中の糖分(ブドウ糖)をエネルギーに転換できない病気である。そのため、血糖値が高くなり、尿中にも排出される代謝疾患である。インシュリンそのものの欠乏から来る糖尿病をⅠ型、その働きに支障をきたすものをⅡ型と呼んでいる。

前者は発症が急で、症状も重く、インシュリンの投与が必要であるが、後者は経過が緩慢で、治療は「食事療法」、「運動療法」、それにインシュリンが機能するための「薬物療法」の3つを用いる。

小生はⅡ型であり、糖尿病患者の9割以上がこのタイプである。Ⅱ型の糖尿病が生活習慣病と言われる所以は食事と運動に依拠するからである。従ってこの病気の回復を決するのは食事と運動の生活習慣が改善されることである。

小生は自分から希望した「教育入院」である。教育入院とは糖尿病の恐ろしさを再認識し、進行すると網膜症(目が見えなくなる)、腎症(尿の出が悪くなる)、心筋梗塞や脳梗塞(心筋や脳の動脈が塞がり、血液が流れなくなる)などの合併症に至らないよう予防することである。そのために毎日教育ビデオを見るという日課である。

もちろん病院で出される決められた食事(小生の場合は1600kcal)を摂り、適度な運動(小生の場合は特段言われたわけではないが自発的に朝6時半のラジオ体操と階段の昇り降り)をすることである。

700mg/dl以上あった中性脂肪、75kg以上あった体重、200mg/dl以上あった血糖値、8%以上になっていたヘモグロビンA1cが徐々に減っていった。こうなると面白い。目標を掲げたくなる。売店で余計なものを買って食べないことが快感になる。食事の後は数字を下げるために強迫的に運動する。

「武藤さん、そんなにフーフー息を弾ませて大丈夫?」看護師が言う。「おたく、どこも悪そうに見えないけどねぇ。」同室の患者が言う。内心これらの言葉を励みにし、優越感を持ったりする。

そのうち、他の患者と数値を比較することに自信すら持つようになる。教育入院では中間テストと卒業テストがある。糖尿病の合併症や食事のカロリー計算、それに食物の交換表などについて必死に勉強する。話によると、小生は高得点をとったと言われたが、過去に満点をとった人がすぐに再発し、再入院した、と聞かされ唖然とした。

入院期間2週間の満了が近づくにつれ、数値はほとんど正常に近くなった。入院生活の環境的効力を痛感した次第である。しかし、小生には漠然とした不安が残った。数値は正常に戻ったが、世の中に出たとき、入院生活で実践してきた食事と運動の生活習慣が確保されるのだろうか、これで理想の生活 習慣が身についたのだろうか、自信がない。小生は主治医や看護師に尋ねる。答えはこうだった。

「それは武藤さん、あなた次第よ。」

社会復帰した途端に猛スピードで走って来る自転車にぶつかりそうになったり、騒々しい駅の構内を歩いたり、そしてそのすぐ目の前にラーメン屋の赤いのれんを流し目に見たとき、果たして何食わぬ顔でその前を通り過ぎることができるだろうか。

「私はストレスに弱い。」

そうでなくても、人生に不満を持って生きている私がちょっとした刺激に反応しないわけがない。きっとその不満を食べるという行為にすり替えて満足している気がする。この生き方や生活習慣が変化しない限り、生活習慣病は治ったとは言えないのではないか。この病気は数字の改善だけではなく、生活とともにある。果たして2週間の入院で新しい生活習慣が身についたのだろうか。

「看護師さん、ストレスに曝されたとき、食べ物以外で自分をコントロールする方法はないですか。」「武藤さん、それはあなたの専門でしょう。」「それができないから入院したんですよ。」藪蛇であり、誰も答えを持ち合わせなかった。何故か次の瞬間、3日前に見舞いに来た次男の声を思い出した。

「お父は娑婆に出たらすぐ元に戻っちゃうよ。」リアルな響きであった。「あの2週間の入院は何だったんだろう。」そう思いはせぬかと抑うつ感さえ覚えた。

人はストレス解消の手段を無意識に食(酒)と性、それにギャンブルや買い物などに求めると言う。私はストレスの解消を何に依存し、生きているのか。この病気はまさにその気づきを暗示しているようだ。

日本人のメンタリティ

2015年11月2日

最近の日本人の「メンタリティ」(mentality)、つまり心的傾向や精神状態は以下のような傾向があると筆者は思っている。この根拠は様々な調査や面談を通して得たデータを基にしている。

1)自己表現や自己主張が苦手
 対人関係では萎縮したり、ひきこもったりする傾向が強い。またキレやすくなったり、暴力を振舞ったりなどの行動化が起こりやすく両極端な言動を示す。

2)孤立した行動をとることが多い
 集団で行動しなくなった。群れるよりも孤立した行動を取ることが多く、仕事でも勉強でも一人で調べ、一人で考えることが多く、みんなでガヤガヤといった 感じが消えた。

3)周りの目を気にする
 それでいて周囲の目が気になるといった傾向が見られる。自分はどう評価されているか、どう噂されているのかが気になってしようがない。

4)相手の気持ちを理解できない
 話をしていても相手の言葉や言った内容にだけとらわれてしまい、相手の気持ちを汲み取ることができない。それは語り口、表情、態度などのボディランゲー ジから読みとるものであるが、それが苦手になっている。

自己表現や自己主張がうまくできないのは自分の気持ちに気づかなかったり、それを自分の言葉に含ませることができないからである。暗記させられた台詞やマニュアル、メールだけに頼りすぎると気持ちを表現しにくくなる。

「いらっしゃいませ、こんにちは、ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」ばかりを機械的に繰り返していたら、人は他人の気持ちどころか自分の気持ちにさえ触れられない。まずは自分の気持ちに気づき、それを言葉にしてみることである。下手でも良い。そこには生きたコミュニケーションが展開する。

自己表現や自己主張が苦手な人は「上手に言えるだろうか、相手は受け止めてくれるだろうか」と不安になる。しかし、それもその人の気持ちであり、そのことを伝える。「上手に伝えられるかとても不安です。それに受け止めてもらえなかったらどうしようと考えたりしています。だから、最後まで話を聞いて下さい。」身体から力を抜いて素直に伝えることができれば、相手もきっと受け止めてくれるはず。

孤立した行動も「人間関係は面倒だ」と思っているからである。不信感や疎外感から関係を持ちたくないと考えてしまう。こうなると人間関係はますます希薄化し、コミュニケーションの不全状態を招く。向き合って気持ちを確認したり、お互いに理解し合って和解するような場面も少なくなっていく。

今、日本人は孤立した行動を取る人が多い。「見ざる、聞かざる、言わざる」といった心理的防衛が働き、コミットメント(関わること)できなくなった。しかし、それでいて周りの目も気にしている。それはいじめられたり、排除されたりするのが怖いからである。「他者報酬型」ライフスタイルで生きてきたために主体性が欠如し、自分にとって大切な人生の選択に判断や決断ができなくなった。これが最大の自信喪失を招いている。本当の自分をどこに置いてきたのか、それを探すために「自分探しの旅」に出る人が多くなった。

自分の気持ちに気づかなかったり、理解できなかったりする人が相手の気持ちを理解したり、察することは困難である。いくら、「相手を理解して下さい」とか「相手の立場に立ってみて下さい」と言われても、自分のことが分かっていなければ共感的理解は難しい。

今、心の専門家と言われる精神科医やカウンセラーでさえ、心で心を治療(精神療法)することができなくなってきている。言葉の内容だけに頼ったり、患者やクライエントとしっかり向き合えない。まさに、日本人の情緒面の育成と自己表現に関する教育や養育をしっかりやっていく時期に来ている。

心が解ける時  -新たな職場のメンタルヘルス対策の局面-

2015年11月2日

心が凍ってしまう時がある。凍ると気持ちは言葉にならない。ならないどころか、言葉にする意欲すら湧かなくなる。つまり、伝達そのものが面倒になり、孤立した行動をとる。

心が凍ると感情が生まれなくなり、思考も働かない。意識はボーッとし、記憶は寒々とした体験だけが蘇ってくる。

次の事例は職場のメンタルヘルスに関するものであるが、部下のAさんが過重労働からミスやエラーを繰り返し、うつ状態となり欠勤も続いている。
逐語には係長、課長、Aさんの三人が登場する。

係長「課長、Aさんが2ヶ月ほど休みたいと言っていますが、医者から診断書をもらってきています。」

課長「えっまた?勘弁してよ。Aさん、今どこにいるの?」

係長「健康管理室で保健師と話しています。」

課長「じゃあ、ちょっと会ってくる。」

<保健管理室で>

課長「困るなぁ、Aさん。この忙しい時に休まれたら、せっかく大きな受注がきて、納期に間に合わせないきゃいけないって言ったのに・・・、この間Sさんが休みをとったかと思ったら今度は君か!

休める人はいいよ。残った仕事を誰にやらせりゃいいんだ。こんなこと言いたくないんだけど、仕事終わってから休みを取ってほしかったなぁ・・・。」

A「(沈黙)」

課長「それで医者は何と言ってるんだ?」

A「適応障害でうつの症状が出ていると・・・。」

課長「適応障害?いつまで休むんだ!」

A「2ヶ月の休養が必要だと・・・すみません。」

課長「ったく。しょうがいないな、俺が穴埋めするしかないだろ!」

Aさんの心の中は、申し訳ない気持ちや周りに迷惑を掛けているといった、自責の念でいっぱいではあったが、それ以上に課長の物の言い方や態度に冷たさを感じた。

「私だって本当は仕事を遣り遂げたかった。課長の期待にも応えたかった。それなのに・・・。」

こんな胸の内を伝えられない悔しさにAさんは涙ぐんだ。同時に頭ごなしに言われた自分を惨めにも思った。

「あの努力は何だったの。」「会社に尽くしたこの15年間は何だったのだろう。」

そう思うと何か大切なものを失ったようにも思えた。

Aさんの心の中には課長へのネガティブなイメージと不信感だけが残った。

2ヶ月後、Aさんは職場復帰はしてきたものの、課長に対する思いは変わっていなかった。それどころかAさんのネガティブなイメージと不信感は他の同僚にも般化され、誰とも顔を合わせることが出来なくなった。それに対して同僚たちも「Aの奴、来たよ・・・」といった雰囲気で凝視し、まるで腫れ物にでも触れるような態度をとった。

お互いに挨拶する気力も自分を表明する気持ちも失せてしまい、Aさんと周りとの間には「解離」が生じていった。

課長が面談しようと誘っても目はうつろで口は閉ざされたままであった。Aさんはいつの間にか見ざる、聞かざる、言わざる、関わらざるといった自分に「ナルシズム」さえ覚えていた。

これが凍りついた心の姿である。

今、職場のメンタルヘルスは新たな局面を迎えている。

うつ病が長期化し、Aさんのような労働者が少なくないからである。かといってそのうつ病が業務に起因するようなストレスから生じているような場合には、たとえ休職期間が満了したとしても解雇することは困難になり、民事訴訟に発展するケースもある。

口々によく言われるのは「メンタルヘルスは最後には人間関係だよ」という言葉である。

それが何を意味するのか、話の脈絡から大体想像がつく。それはAさんのようにネガティブな先入観や不信感に基づくものである。

凍りついた心を解かすには、頭ごなし、決めつけ、矛盾、不条理、過重労働、立場の違い、非人道などなべて「思い通りにならないこと」を素直に吐露し、時には認め、許す場を持つことである。つまりその時、真実や本音を言語や非言語で分け合おうとする気運があるかどうかである。そうしないと人間関係の心の氷は解けない。

ストレスと『諦観力』 すがすがしくすっきりと別れる方法

2015年11月2日

「思い通りにならないこと、つまり『ストレス』が溜まった時はどうしていますか?」

研修等でこんな質問をすると「運動して発散しています」、「ふて寝しています」、「酒に走ります」、「思い通りになるまで頑張ります」といった答えが返ってくる。中には「我慢します」とか「諦めます」と答える人も結構いる。

我慢するというのは耐え忍ぶこと、すなわち忍耐である。臨床心理学では「抑圧」や「抑制」に当たる。抑圧は嫌なこと、辛いこと、恥ずかしいこと、葛藤していることなど一般に不満や不快なことを意識の外(無意識の世界)にたちどころに押しやることであり、抑制は色々考えた挙句、自分なりに合理化し、耐え忍ぶことである。

抑圧にしても抑制にしても我慢することに変わりは無いが、その副作用として神経症(ノイローゼ)になるというのが精神分析の見方である。「日常生活の中で気になることや心配なことが次々と起こってくる」、「ちょっとしたことが気に障る」、「将来のことに不安を覚えたり、周りの目が気になったりして物事に集中できなかったり、眠れなくなったりする」、以上が神経症の主な症状であるが、これは不満や不快なことが潜在化したまま放って置かれたり、整理できないまま曖昧にされた結果である。

「我慢します」と答えた人たちが我慢した後、自分の心身の状態や言動にストレスとしてどんな影響が出ているのか振り返ってみる必要がある。

次に「諦めます」と答えた人たちはどうであろうか?

諦めは、仕方がないと断念することであり、思い切ることである。また、悪い状態を受け入れたりすることでもある。諦める能力を付けることを「諦観力」と言うが、仏教では諦観は「明らかにする、詳らかにする、真理を観察する」という意味がある。仏教では物事を客観的に見つめたり、事実関係を冷静に観察できると諦めがつくという。

諦めるといっても様々で、仕事や勉強、試合や旅行などの出来事やキャリアについて諦める場合もあれば、対人関係について諦める場合もある。

例えば好きな女性に振られた時、その女性を諦めるにはどうすればいいか。心理学的には「他者理解」が必要である。それには相手の立場に立てることであり、相手の気持ちや言い分を理解することである。他方、相手も素直な気持ちで詳らかな説明をすることである。

いわゆる「自己一致」した状態でアサーション(自己表現)できることである。しかし、この段階でどちらか一方や双方が嘘をついたり、ごまかしたりして、自己防衛をしてしまうと再び感情に火がついて、心理ゲーム(ついついやってしまう後味の悪いやりとり)を続けることになる。

いずれにしても諦観力はお互いに相手を信頼できる気持ちと自分の気持ちを素直に表現するという交流の中で生まれる。自分を否認したり、歪曲している場合はうまくいかない。さらにそれが相手にも投影されている場合は困難である。

例えば、自分の非は一切認めず相手の欠点や弱点ばかり責めてしまう交流のパターンでは諦観力どころか執着力の方が増大してしまう。もちろん、和解も不可能になってくる。

男女関係に限らず、人間関係ですがすがしく、すっきりと別れたいなら、前途したような諦観力を身につける必要がある。

心の健康の仕掛け人 -心理的防衛機制の役割-

2015年11月2日

心の健康に影響を与える要因は、主に3つである。「ストレス要因」「ストレス反応」そしてストレス要因をどう受け止め、どう反応するかといった「心理的防衛機制」である。例えば、今日のような厳しい経済環境では、不況ということは誰にとってもストレス要因になるのであるが、そのことで何かいいことはないかと、プラス思考で考える人もいる。例外的に上手くいっている業種もある。

例えば、任天堂。ここは収益が上がってしょうがないという。不景気のため、外に出ないで家に閉じこもって、ゲームをやっている人が増えたからである。また、メンタルヘルスの業界も景気がいい。うつ病やうつ状態の人が多くなったために、その対策に追われている。しかしこれだけの不況風が吹くと、メンタルヘルス対策どころじゃないといった団体や個人もいる。いずれにしても、不況に対して耐える心や、連携する姿勢が生まれてくるのは確かである。これがプラスの面である。

ストレス要因をポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかは、前述したような心理的防衛機制にかかっている。ストレス要因に対し、ネガティブな影響を与える防衛機制としては、「抑圧」「置き換え」「知性化」「反動形成」「取り消し」「感情の隔離」「解離」などがあり、気持ちや願望、記憶、または恐怖心などを意識の外側に排除して保つようにしている。いわゆるこれは「考えない」「忘れる」「割り切る」といった代償形成である。しかしその結果、不安やイライラ、抑うつが生じ、精神活動にブレーキがかかる。さらに心理的防衛機制が、ネガティブに強化されると、ストレス反応としては軽度の心象の歪曲が起こる。「理想化」「万能感」「価値の値引き」などの心理的防衛機制がそれを演出する。

自分自身や自分の身体、または他者の心像について、歪曲した形で認知してしまう。そしてそれが自尊心の調整のために、用いられてしまうことがある。そのため人間関係も歪曲してしまいがちになる。こういった心理的防衛機制が、否定的な形で進んでしまったものが、「投影」「合理化」「否認」などである。これらは、不快で受け入れたくないストレス要因や「衝動」「感情」「観念」または「責任」といったことを、自分以外にあると決めつけ自分を守る。しかし、相手や周りからすれば、極めて自分勝手な姿として映るため、人間関係は悪化する。場合によっては、病的に映ったりすることがある。

こういった心的防衛機制が、増悪されると、自己または他者の心像が、さらに強く歪曲したり、誤った認知を行うことになる。その例としては、「自閉的空想」「投影的同一視」「自己像や他者像の分裂」といった防衛機制である。一方、行動化する防衛機制もある。「攻撃性」「引きこもり」「自傷他害行為」などがそれである。

ところで統合失調症や重度のパーソナリティー障害などを生じさせる防衛機制としては、「妄想的投影」「精神病的否認」「精神病的歪曲」があるが、これは個人の反応を封じ込め、客観的現実を認知することをほとんど不可能にしてしまう。心理的防衛機制の働きとしては、「成り立たない」とか、「失敗」と呼ばれ、防衛機制の崩壊ともいわれている。では、どのような心理的防衛機制なら健康と言われるのであろうか。

それには、以下のようなものがある。「自己理解」「洞察(気づき)」「他者理解」「アサーション」「ユーモア」「コラボレーション」「昇華」「抑制」などである。これらの心理的防衛機制は、我々がストレス要因にさらされた時、何故それをストレスと感じてしまうのか、それを冷静に見つめ直し、反応する意味を理解することにある。また、他者に降りかかったストレス要因を受け止め、他者が反応する意味を理解することである。さらに相互理解によって、コラボレーションを深めたり、アサーションによって自己表現したり、ユーモアを交えた形で伝達することによって、癒され、助け合い、成長するといったことを目指す。また、昇華や抑制では、社会的に認められた形でそのストレスを解消したり、納得のいく形でコントロールして整理したりすることである。

こういった心理的防衛機制は、家庭、学校、職場、地域社会などで身につけられていくが、大切なことは、自分がどんな心理的防衛機制を身につけて日々の生活を営んでいるか、まずはそのことに気づくことである。

新うつとは? 最終回

2015年11月2日

ストレス学説は、外界や内界の刺激(出来事や人間関係、胃痛など)に対して、生体がどんな反応をするのかを明らかにした。しかも、その際の生体の反応は人間のパーソナリティに影響されるといわれる。すなわち気分(感情)、認知(期待や思考)、身体反応、行動反応などが影響を受けるということだ。

パーソナリティの形成は、先天的、後天的の両面から成るが、いずれにせよ心理療法を生業としている者にとっては、パーソナリティの変容に興味を持つことになる。つまり、その人の物事の受けとめ方、感じ方、考え方によって生体の反応が違ってくるということになれば、心理療法も科学性を持ち効力があるといえるからである。

このシリーズでは、新しいうつとパーソナリティの関係を述べてきたが、上述した考えに基づくならばこのような仮説は何も新うつだけに限ったことではない。ガンの精神療法に携わっている筑波大学の宗像恒次氏によれば、患者がガンという病気をどのように受け止めているかによって、その人の健康度や日常生活のあり様が決定されるという。

例えばガンという病気から様々なことを学び、ガン細胞と一緒にゲラゲラ笑ったりする人は、日常生活に幸福感を見い出し、結果的にも延命につながるという。また、筆者が面談したうつ病のクライエントの方も「先生、私はうつ病になって良かったです」と述べた。

「それはどうして?」とたずねると、「私は人間関係が苦手で、職場異動してからそのことがストレスになり、うつになってしまいました。2ヶ月入院したのですが、その間にどうしてうつ病になったのか自分なりに考えてみたんです。そうしたら、自分は父親との確執があり、甘えたことがなかったんです。それをずっと引きずっていたことに気づきました。それで退院し、職場復帰してから係長や同僚に『この仕事教えて下さい』とか『ちょっと助けてもらってもいいですか』と言うようにしたんです。その結果、周りも機嫌良く応じてくれました。以前よりは見違えるほど人間関係がうまくできるようになりました。気持ちを声や言葉にすることが、いかに大切かを知りました。これもうつ病になったおかげです」このクライエントは私が知る限り、最も早く回復した人だったように思う。そういう点からも、パーソナリティを見つめることがいかに重要かが解る。

たとえば、「完璧主義」というパーソナリティがうつの病前性格として取り沙汰されるが、これは「取り入れ(摂取)」という「防衛機制(適応機制)」が極端に強く身についたものである。

「病気になるのはたるんでいるからだ!風邪を引くのは気合いが入っていないからだ!」と叱責され、その上で「しっかりするんだぞ・・・」と言われ、頭を撫でられた子供は、ひょっとしたら親の言ったことを取り入れるかもしれない。ひょっとしたらその子は大きくなってから病気を認めたがらない人になるかもしれない。何故なら病気になるのはたるんでいるから。「こうでなければならない」「こうすべきだ」といった思考パターンは、完璧主義傾向の性格に多いが、それは取り入れからきている。

ところで、同じ完璧主義でも自己愛性格が強い場合は意味が異なってくる。「この仕事は私でなければできない」「部下には任せられない」「全て私が点検しなければならない」といった意味合いが強くなる。強迫性性格が強い場合は、ミスやエラーが恐いという気持ちや、何か他に潜在的な不安があるために、1つのことに集中できず、何度も同じことを確認したりする。いかにも完璧を求めているように見えるが実体は違う。見捨てられたくない性格傾向が強い境界型の人にしても、素直になれないという演技性の人にしても、そこには様々な状況や背景がからんでいるため、パーソナリティ形成の「綾」を1つ1つ聴く必要がある。

そしてその人の主観や不安症状の中にこそそれを解くヒントや答えもある。その人のパーソナリティを受けとめ、反応の仕方の脈絡を理解することは大変な作業にはなるが、そのことが心理療法の仕事である。

「あなたはどうやってうつになったのですか?」「あなたはその出来事をどのように受け止めたのですか?」「その時、あなたはどのような気分(感情)になったのですか?」「その時、あなたはどんなことを考えていたのですか?そして次にどんなことを連想していったのですか?」「どうしてあなたはそのように考えたのですか?」「その時あなたのからだ(身体反応)はどうなったのですか?」「その時あなたはどんな行動をとったのでしょう?」クライエントのこれらのエピソードについて意味を理解し、自分の生き方の糧にできた時、聴く側に成長がもたらされる。それ故にこそ、この仕事はやめられない。

新うつとは? その4

2015年11月2日

新うつの第4回目は、境界性性格に基づくうつを取り上げたい。境界性性格は対人関係や自己イメージ、それに感情などがきわめて不安定であることに特徴がある。その根底には、常に自分は「見捨てられてしまうのではないか」といった不安や恐怖がある。そしてその状況に対し心理的防衛が働き、極めてナーバスな反応をしてしまうのである。

例えば、ちょっとでも相手が自分を避けるような発言や拒絶するような態度を取ると、その意味をしつこく聞こうとしたり、納得がいかないと激怒したりする。それは見捨てられないためのなりふり構わない努力の姿でもある。

現実のやりとりで実際にうまくいかないことが起こると、ひどく傷つき自傷行為や自殺行動も辞さない。逆に自分に対して無条件に愛情をかけてくれる人に対しては、限りなく理想化するが、何かのきっかけでそれが成就されないときは、激しいこき下ろしが待っている。従って対人関係は不安定で激しいものとなり、相手も気を遣ってしまう。また、自分に対するイメージも両極端だったり不安定だったりする。一貫した感情を保つことができないため、周囲からすると、ついつい人が変わったように見える。その結果、物事に対する価値観、目標、仕事などについても、突然考え方や感じ方を変化させるため、周りがついていけないことが多い。

日常の生活では、賭け事、浪費、無茶食い、薬物乱用、衝動的な性行為、無謀運転、前述した自傷行為や自殺企図など、自分を追い詰めたり傷つけたりするような行動を示すことが多い。そして内面ではそういう自分を恥ずかしく思ったり、罪悪感を持ったりする。そうなると自分を嫌悪し、自責の念を持ち、うつ状態になる。また実際にそういう自分を周囲が見捨てたり、拒絶したりする場合もうつ状態を示す。そしてその状態からしばらく抜け出られないときがある。

いずれにしても境界性性格によるうつ状態は、過去に見捨てられ体験があり、それを抑圧した結果、新たな見捨てられ情況に対して激しく反応するという心理的防衛機制がある。

Oさんが抑圧したもの
Oさん(男性、29歳独身)は、普段大人しく、一見いい人であると言われている。彼には同じ年の彼女もいるが、時々怒りを爆発させてしまうという。それは特に彼女が待ち合わせ時間に遅れた場合である。4~5分遅刻しただけでもバカにされたと思い、激しく彼女を攻撃してしまう。その後には決まって別れ話が待っているというが、数日経つと、縒りが戻り、付き合ってしまうという。

喧嘩しては求め合い、求めては喧嘩してしまうので、彼女もいい加減に愛想を尽かしているという。Oさんの話をじっくり聞いてみると、約束を破られたり、決められた時間に来ない時は、ついつい見捨てられたと思い、自分が必要とされていないと思ったり、認められていないという考えが起こってしまうという。そうなると堪えきれなくなり、それを相手にぶつけてしまう。

「過去にもそういった体験はあったのですか?」と尋ねると、「小さい頃自分は兄弟の中で一番爪弾きにあっていました。他の2人に比べると、勉強もできなかったし、運動も苦手で親や周りからの評価は低かったです。そういう時は、『もう我慢ができない。いつかこいつらを見返してやる!』と自分に言い聞かせてきましたね。しかしその場では、それもできずに何事もなかったかのように振る舞ってきました」Oさんはその隠した部分を「心の闇」と表現した。「その時に自分の気持ちや感情を表現したり、本当はどうしてほしかったのかを伝えられたらよかったのですがいつも誤魔化し、逆にその怒りを原動力に生きてきました」「闇の部分にOさんの生きる原動力があったのですね」Oさんは黙って頷いた。

「そういう自分の生き方が、最近とても嫌になって、彼女とも付き合う資格がないと思うんです。でもそうなると急に寂しくなり、落ち込んでしまいます。こういう自分はいない方がいいんじゃないか、迷惑をかけているのではないかと思い始めると、雪だるま式にどんどんマイナス思考に支配されてしまうのです」

そこで小生は、物事の見方、考え方を修正できるような認知行動療法を実施した。すると以前のような落ち込みやうつ状態からは半ば解放されるようになった。

新うつとは? その3

2015年11月2日

うつは睡眠障害、食欲の異常、易疲労感など身体症状を伴うことが多いが精神的には落胆や失意といった抑うつ感、自責の念などの症状に支配される。

動物実験では「セロトニン」や「ノルアドレナリン」などの脳内神経伝達物質が不足していることが解っている。また大脳皮質、前頭葉の前部の血流も悪いといった指摘や副腎皮質ホルモンの過剰分泌によるセロトニンリサイクルシステムの障害とも伝えられている。

うつ病が脳の病気や心身の機能不全といわれるのはこのためである。

ところで、話題となっている新うつは、脳の病気などではなく「パーソナリティ」(性格)に起因すると言われている。パーソナリティは物事の受け取り方、感じ方、反応の仕方を表す概念であり、人によって様々である。今回は新うつの中でも自己愛・演技性の性格に基づくうつを取り上げたい。

うつと言うからには前述した抑うつ感や自責の念といった症状が2週間以上、時には数年に渡って続く場合である。その前提がなければうつとは言わない。仮面うつ病のように身体症状が前面に出て、一見精神症状がないように見える場合もあるが、それは隠されているのであって実体しないわけではない。むしろ隠された症状、潜在的な防衛を読みとらない限りうつの治療回復は望めない。

では、自己愛・演技性の性格のうつにはどんな特徴があるのか。

自己愛が強い人は根底に自分は特別だという意識を持っていることが多く「自分はこんなにも能力がある」「私は美しいでしょ!」「権力だってあるんだから」といった調子で周りに誇示したがる。したがって周りから批判されたり悪口を言われると内心では激しく反応してしまう。周囲の評価に敏感であり、自分が他人や世の中にどう映っているかがとても気になる。お世辞をほしがったり、ひどく容姿や身体的外見を気にする。それ故に相手からバカにされたり、無視されたり、期待どおりにならなかった時には、それこそうつ状態になってしまう。

演技性というのは一口に言えば、「素直になれないこと」である。誇張したり、芝居がかっていたり、大袈裟だったりする。どこか無理がかかっていて、感情表出も「まあ いらっしゃい!」とか「ほんとうに大変だったのよ!」といったオーバーになることが多い。

イイコタイプであれば相手を持ち上げたり、笑わせたりして、その場を演出する。躁状態が続きエネルギーを使い果たすと疲弊し、最後そんな自分を情けなく思い、嫌悪し否定する。その結果うつ状態になる。そんな情況で精神科のクリニックを訪れると大概うつの診断名がついてしまう。

また演技性の性格の強い人は自分が注目の的になっていないと楽しくなく、認めてもらえてないと感じてしまう。「Aさんあなたがいるから私たち実家に来れるのよ」とか「あなたがいるからこの店やりくりできているのね」といった言葉に弱く、またそれを励みに生きる。

演技性性格の裏に隠されたもの
Wさんは(29歳男性独身)は性格的には外向的で明るいと見なされている。同期会や会社の集まりでは決まってエンターテイナーの役割を果たす。新しいジョークを飛ばし、話しをしない人には世話を焼く。普通はそういうWさんを皆は歓迎し、いつもその役割を期待する。

しかしWさん自身はそのイベントが終わるとグッタリ疲れ果て、その後はなんにもする気になれなかった。そんなある日会社の飲み会でいつものように振る舞っていると、先輩の一人に「おまえ少しは落ち着きなよ。無理しすぎんだよ。だからお前女に持てないんだよ。女だって疲れてしまうよそれじゃ・・・」と言われてしまった。その場は皆の手前もあってつくろったが、内心ではひどくショックを受けた。自分の弱点を槍で突き刺された思いがしたからである。

それ以来日常生活の随所に似たような状況が展開すると落ち込むようになった。自分でもどこか無理したり背伸びしたりしてリラックスできないと思っていたのだ。

しかし精一杯演技し、皆を取り成すことこそ美徳だと思っていたのに「あの努力はなんだったのか。29年間の年月はなんだったの?」そう思うと居ても立ってもいられないほどの虚無感に襲われた。自分の心の拠が一挙に離れ去るように感じた。

Wさんはいつの間にか自分の性格を嫌い、今までの生き方を否定するような生活をしていた。それでも思い出したように頑張ろうとしたり、かと思うと世間体をひどく気にして生きてきた父親の分身だと言い張り、自分を責め、泣き?った。

Wさんの姿からとにかく周りからよく思われたかった。嫌われたくなかったという気持ちだけは読み取るのに難しくはなかった。それがどんな背景や物語からきているのか、カウンセリングの醍醐味はここから始まる。